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杭州での金冬楠先生

 王 勇

 

一、陸地よりも水路

 十二年も前のことだが、昨日のことかのように、記憶がまざまざと蘇えってくる。色褪せた記憶ではなく、生々しい音色を伴ったそれである。たちばな出版から送られてきたゲラ刷りに目を通しながら、わたくしはタイムトンネルに吸い込まれるように、すいすいと一九九一年九月五日(木曜)にまで戻っていった。

朝、杭州から汽車に乗って、約三時間で上海駅に到着した。上海日本総領事館の文化領事井上一郎さんと合流して、虹橋国際空港へと向かう。初対面のキーン先生は、予想したほどの巨躯ではなく、小柄で優雅な老人にみえた。「はじめまして」と、金髪碧眼のしゃべる日本語の独特な響きは、今もかすかに耳元に聞こえている。

今、一九九一年の日記ノートをめくっている。当日はキーン先生と淮海路の上海賓館に泊まっていた。何か大変な事件があったような気がするが、すぐに思い出せない。あった!九月五日の記事に「五十年ぶりの暴雨、町は水浸し、積水は膝まで」と書いてある。たしかに夕食後、ホテルへ帰る途中、車台の低い車が浸水して何台も道のど真ん中で立ち往生していたが、総領事館の高級車は辛うじてわれわれを目的地にまで送り届けてくれた。

  翌朝は晴れてすこし蒸し暑い。総領事館から調査員の徳岡仁さんが上海博物館を案内してくれた。「昨晩は暴雨で大変だったでしょう」と徳岡さんが挨拶したら、「ぼくは海軍出身で平気ですよ。陸地よりも水路に慣れているから」とキーン先生の機敏な回答は、みんなの笑いを誘った。

  昼食後、一時十八分の汽車で杭州へ移動。キーン先生は沿路の江南風景がすっかり気に入ったようだ。杭州までは三時間弱かかるから、ここでキーン先生を招請したいきさつを簡単に紹介しておこう。

一九八九年、杭州大学に日本文化研究センターが創設され、わたくしは初代所長となった。そのころ、日本学といえば、実用的な言語や経済または政治などがもてはやされ、歴史・文化・文学のたぐいはあまり顧みられなかった。日本語科の学生も語学能力にしか興味を示さなかった。なんとか著名な学者を招請して、学生たちに刺激を与えようと思った。しかし、当初はキーン先生のような最高の研究者を呼べるとは夢にも思わなかった。十二年後の今でも、「縁」の不思議さに、ただ驚くばかりでいる。

二、壁に耳あり

午後四時ごろ、汽車は杭州駅のホームに滑りこんだ。同僚の馬安東さんと王宝平さんが迎えに来てくれた。それから二週間、キーン先生は杭州大学日本語科の学生を対象に、日本文学の集中講義をなさることになるから、通勤の便を考えて、宿泊先として大学の正門から徒歩十分たらずの黄龍飯店をお薦めした。

七日(土曜)、ホテルで講義内容とスケジュールを打ち合わせる。キーン先生はいくつかのトピックを用意しておられるが、中国の学生にとってわかり易くかつ興味を引きそうなトピックを選んで、下記のとおり集中講義のプログラムを組んだ。

九月十日(火曜):明治初期の日本文学の成立

九月十一日(水曜):日本の日記文学

九月十三日(金曜):日本文学がどのように欧米に紹介されたか

九月十八日(水曜):西洋人の目から見た日本

八日は日曜日、キーン先生を西湖あたりに案内した。キーン先生は聴講生の日本語能力はいかがなものか、どれほど日本文学の基礎知識を持っているかなどを聞き、蘇堤と白堤を散策しながらも、明日の講義のことを考えていたようだ。

聴講生は、三年生と四年生をあわせて四十一名である。欧米人の口から日本語が出てくること自体ちょっとした奇跡だし、ましてやキーン先生の日本語には、日本人には見られない響きとユーモアがある。内容もわかりやすくて面白い。

これらが口コミによって、たちまち学生たちの間に広がり、二回目から一年生と二年生から聴講希望がどっと寄せられてきた。他の授業をサボってまで集中講義に来るのは行けないという建前で、一律に断ったけれど、毎日十人ほどこっそりと廊下で窓越しに「盗聴」していた。

キーン先生は「彼らは何をしているのか」と不思議に思われたが、こちらはこちらで実情をそのまま打ち明けるにも行かず、「壁に耳あり」でごまかした。日本語科の授業に、これほどの盛況を呈したのは、キーン先生の前にもその後にもなかったことだ。  

三、陶磁器と金冬楠

キーン先生の日本語に慣れてくると、今度はたまにお使いになる英語と中国語に驚かされる。戦時中、アメリカの海軍として青島に駐留したことがあったらしく、純粋な発音で北方系の中国語をしゃべるのである。

欧米人は音で言葉を覚え、漢字系の人は形で文字を覚えるといわれるが、キーン先生も流暢な日本語を操るものの、板書するとき漢字のど忘れがよくあった。また「魏志倭人伝」を「魏志和人伝」と書くなど、古い用語より新しい用語になじんでいる。

それにしても、キーン先生は底知れぬ中国文明への理解と教養を持っている。上海博物館で、先生はもっぱら陶磁器に見入っていた。ただ黙って一点一点と鑑賞し、評論もしなかった。

十四日(土曜)、キーン先生を杭州文物商店に案内した。わたくしは銅鏡と扇子をコレクションしているから、しばしば訪れる店であるが、その日はキーン先生につきそって陶磁器ばかり見ていた。のちに、店の専門家によると、「あの人の品定めからすりゃ、間違いなく陶磁器の目利きだ」という。

十八日(水曜)、最終講義を終え、沈善洪学長はキーン先生に杭州大学名誉教授の証書を授与した。翌日からキーン先生と二人で蘇州を観光して、ふたたび上海に戻り、二十二日(日曜)虹橋国際空港までキーン先生を見送った。

搭乗手続きホールへ入っていくキーン先生の後姿がだんだんと小さくなっていくが、わが心のなかのキーン先生はすでに巨大なものとなっている。これはDonaldKeenrでもドナルド・キーンでもなく、Chinaの目利きでChinaの知識を豊かに持っている金冬楠その人である。

金冬楠先生、杭州でこしらえた漢名の印鑑をお使いになっていますか。

二〇〇三年八月一日 杭州にて

(ドナルド・キーン著『日本文学は世界のかけ橋』あとがき、たちばな出版、2003.10)

 

 

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